■言葉の乱れと時代の変遷



「言葉が乱れつつある」。そう嘆く人は少なくありません。
「ら」抜き言葉や誤った敬語、誤用が広まり定着してしまった慣用句。正しくない日本語は、日常生活の中に溢れています。


たとえば、「捏造」。今、この字を「ねつぞう」と読んだ人は多いと思います。正確には「でつぞう」です。 ほかにも「間髪を入れず(かんぱつをいれず)」。これも正確には「間、髪を容れず(かん、はつをいれず)」です。

一般化した「誤った言葉」は、いくらでもあります。
このような現実を憂えている人もいますし、正しい日本語を広めようと努める人もいます。ですが、私の持論を述べれば、「言葉は、乱れようがない」のです。

そもそも、言葉の目的とは何でしょうか? それは、情報の伝達です。
目的論の観点から言えば、「意味や意図が伝わっていれば正しい」になります。たとえ、元々の意味と違っていても、伝達が成立していれば、それは正解です。

社会や文化、芸術が、時代の変遷とともに変化するように、言葉が変化しても不自然ではありません。使いやすいよう、伝わりやすいように変化するのが、人の知恵というものではないでしょうか。

最近では、ビジネスメールでも、「(笑)」「(汗)」や顔文字を書いてくる人もいるほどです。時代も変わりましたね。


とはいえ、憂えている人の気持ちも理解できます。
アメブロを見ていると、絵文字や顔文字を多用しているブログを散見します。人気を博しているブログでも、絵文字や顔文字の多用は珍しくありません。私はそれを見るたび、「そんなの文字じゃない。文章じゃない」といった拒絶感に駆られます。しかし、「大勢の人が読み続けている」という事実は、目的論からすれば正解です。自身の論理に自身が論破されている形です。

人は、何か一つに傾注するほど、「こうあるべき論」がその人の中で出来上がってしまうのでしょう。それが原因で、自分の考えと違うものを目の当たりにしたとき、拒絶感を覚え、排斥したくなるのです。

悪足掻きに、一つ付言しておけば、やはり絵文字は使わずに文章が書けたほうが無難です。文章は、必ずしも絵文字が添えられる環境下で書けるとは限りません。文字だけで文章が書ければ、困ることはありません。本当に悪足掻きですね。



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